言語と思考

思考とは言葉の操作であり、これを指してプラトンは「思考」を自分自身との内的な「対話」と呼んだ。同様に藤沢令夫は、思考とは言葉(ロゴス)を発する本人が同時に発する言葉を聞く行為が必ず付随するため、結果的に自己内で対話(ディアロゴス)をしている状態になり、これが思考の本質でありそのダイナミズムを適切に表現していると論じた。ただし、現象学を研究するエトムント・フッサールは、この対話とは通常のコミュニケーションと比較すると「告知作用」に欠け、「意味作用」のみの働きと分析している。

思考と言語が密接に関係するということは、言葉が曖昧なものだと、それが言語を超越した直感でも無い限り思考の内容である語義と意図が曖昧であることを意味する。また、サピア=ウォーフの仮説では、思考は言語構造に規定されるということ(言語相対性仮説)が提案されている。これは、何らかの対象について思考する際、それぞれの人間が使う言語が持つ個別概念が影響を及ぼすというものである。例えば本来区切りが無い虹について、ある言語で「虹は六色」、他では「七色」と分類されていると、それを使う人間の思考では虹はそれぞれの数の色分けをして然るべきという認識が課せられる。

思考と言葉の関係そのものについても、それぞれの言語種類で捉え方に違いがある。日本語では両者は分けられる傾向にあり、「声に出して思考する」という表現は馴染まない。しかしドイツ語の分離動詞「nachdenken」には「熟考する」という意味の他に、副詞と結びついて「laut nachdenken」では「熟考した結果を公にする」という意味を持つ。日本語の思考では頭(または心)の中だけの行動と取られがちだがドイツ語では思考と言葉を同じものとみなす傾向があり、細分すると思考は表現する前の言葉であり、言葉は表現した思考となって、両者は本質的に同じものと捉えられている。

思考は人間の知能を知る上で重要な要素である。しかし、知能の解明は未だ不充分であり、その背景には本来密接に関連する思考と言語がばらばらに研究されてきた事がある。

このような思考と言語の関係について、ギルバート・ライルは異なる観点を提示している。多くある思考は自分自身への語りかけであり言語またはシンボルの形態を取るという意見に反論し、ライルは思考過程において言語が使われてもそれは思考が目標に向かう過程で経由した単なる段階でしかなく、誰かに聞かせる意図を持つものではないと論じ、思考は言語に限らない多くの伝達手段を自己に対して実験的に投げかけているものだと主張した。思考は言語を基礎に行われるが、それだけではなくイメージなども関与する。また、感情や動機づけなども影響を与える複合的な過程である。

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